日本で 成功 果たすも 「民主化」の 夢  いつの 日か

NPO法人 ミャンマー-日本教育のかけはし協会 理事長

ミャンマーレストラン「ルビ-」オーナー店長

チョーチョーソーさん

 1963年5月、ヤンゴン生まれ。ヤンゴン経済大学 2年の 時から 民主化運動に 関わり、84年に卒業後も 続ける。88年 8月 8日の 8888民主化運動に 参加し、91年、28歳で 故国を 追われ、バンコクを 経て 日本に 脱出。

成田に 到着した チョーチョーソーさんが

リムジンバスで 新宿まで 行くと、京王デパートの 前で 民主化グループの 仲間が 待って いました。その 彼の 紹介で 新大久保の アパートに 入った。3DKの 部屋に 14人の ミャンマー人が 暮らして いました。家賃は 1人 3万円。後から 考えれば 法外な 金額だった けれど、他に 選択肢は ありません でした。

 

 チョーチョーソーさんは 肉体労働の アルバイトなどを しながら そこで 1ヵ月ほど 暮らし、やがて 千葉県に 移り ました。そして 配電関係の 小さな会社に 就職しました。社長は サウジアラビアや インドなど、外国で 働いた 経験が あった。だから 異国で 暮らす 外国人の 気持ちを よく 分かって くれました。彼は 仕事には 厳しい けれど とても良い人で、チョーチョーソーさんは ここで 日本の 仕事の やり方を 学びました。

 

 その後、東京に 戻って 池袋の イタリア 料理店で 修行した 後、2002年に 高田馬場に ミャンマー 料理店「ルビー」を 開店しました。開店直前、ミャンマーから 恋人を 呼び寄せ、結婚。日本政府には 難民資格を 申請しました。高田馬場には 1995年くらいから ミャンマー人が 増え 始め、チョーチョーソーさんの 店は 3番目。2010年に ミャンマーの 総選挙が 盛り上がり、多くの マスコミが 取材に 来て、彼らが 高田馬場を 「リトル・ヤンゴン」と 呼びました。その頃、一番 多かったのは 留学生でしたが、段々と 技能実習生が 多く なり、5―6年前に 逆転しました。

 

「現在実習生の 大半を 占めて いるのが、ベトナム、中国、フィリピン、ネパール、カンボジア……それから ミャンマーなど ですが、日本人の 雇用者に とって 一番 扱いが 難しいのがミャンマーでは ないかと 思います。その 理由は、ミャンマー人の 国民性として 仕事に 対する 責任感が 薄い。マイペースで のんびりして いる から、とにかく 仕事が 遅い。もちろん日本に 住んで 日本の やり方を 教えれば 変わり ますが、大抵 1年くらい かかります」

 

 最近は 留学や 実習の 期間が 終わっても 日本に 留まる ミャンマー人が 増えて きた。日本で 結婚し、日本 生まれの 2世も 続々 誕生して いる。日本定住の 先輩格として、チョーチョーソーさんは 毎週 土曜日、NPOで ミャンマー語教室を 開いて 子供たちに 教えて いる。

 

 レストラン、NPO活動、さらには NHKで ミャンマー語講座を 担当するなど、日本で 多忙な 日々を 送って いる チョーチョーソーさんだが、青年時代に 抱いた 祖国民主化の 夢は まだ 捨てて いない。

 

「スー・チーさんが 最高指導者と なって 国内の 政治状況は だいぶマシに なったが、現在も 祖国の 民主化運動は 続いて います。軍の 力が 強すぎる。それと、近年は 中国の 影響が 強まり、中国共産党と 癒着して 宝石(翡翠、ルビー、サファイアなど)や 木材などの 資源を 際限なく 安売りする 現政権に 対する 批判が 強まって います。いつかは 国に 帰って民主 ミャンマーの 建設に 役立ちたい という 夢は、まだ 終わって いません」

 

 20年近く 前に 申請した 難民認定は 未だ降りて いませんが、特別永住資格を 認められ、チョーチョーソーさんは 半永久的に 日本に 暮らす ことが 可能と なりました。

 

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